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 表紙(佐々木博邦作)

嗚呼満州!

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書籍名:嗚呼満州!引き揚げまでの日々
発行日:平成21年6月30日
著者:千葉仁徳
定価:1,500円(税込
本書の購入方法:ご注文は、下記発行所に直接お問い合わせください。

〒980-0011
宮城県仙台市青葉区上杉2丁目1-27
陽和ビル3F
「嗚呼満州友の会」
電話:022-214-1050
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満州!栄光と影の記録 鎮魂の心を込めて
千葉仁徳著「嗚呼満州!引き揚げまでの日々」より
覚悟の渡満

clip_image002私は大正15年10月1日、現在の一関市、西磐井郡萩荘村で、ノボル、ヒサの一女として生を受けた。役場勤めの父は「兵事係」として、兵事に関する一切の仕事を担当していた。母は世話好きな人だったようで、積極的に奉仕活動をしていた。

当時は国策によって満洲開拓が叫ばれ、十四、五歳の少年たちを 「満蒙開拓青少年義勇隊」に 応募させ、満洲へ、満洲へと派遣していた。 こうした状況下、これまた国策として「大陸の花嫁」という名目で花嫁募集が盛んに行われるようになった。

母は「大陸の花嫁」募集に積極的だった。私が十八歳になると、「他人様の娘さんへの声掛けだけでは申し訳ない」として、自ら我が子を岩手県へ申請した。私は両親の希望通り、「大陸の花嫁」として満洲に渡ることを決意した。

昭和十八年五月、岩手県庁のある盛岡に集合し、県知事から「激励の言葉」を戴き、東京に向かった。

故郷を旅発つとき、軍人を送るときと同じように日の丸の小旗を振る地域の方々の激励と見送りを受けて勇んで出発した。

私は「よしやるぞ」という意気込みが燃え上がるってくることを感じながら、何の不安もなく、故郷に別れを告げた。仙台駅からは引率のショウジ教官と学官の二人に付き添われた。

東京駅に着くと、東北地方の出身者が多く、岩手県が十三人、宮城県十人、青森県三人の総勢二十六人の編成だった。第一期生として渡満することになった。その時、出張中の父と別れの言葉を交わすことができなかったことが残念でならなかった。

しかし、渡満の準備などで、まだ東京に滞在していたときに、父が面会に駆け付けてくれた。 「覚悟して渡満する」と思っていたのでしたが、言葉では言い表せない感傷が胸に迫ってくるのを覚えざるを得なかった。

十八歳の娘を、今後いつ逢えるか分からない未知の満洲に旅立たせるのだ。国策とはいえ、父の心情は想像に絶するものがあったのではないでしょうか。

このとき、我が娘が終戦後、生死も不明で、放浪を続け、悲惨な生活から無事に生還してくることを予見することはできなかっただろう。

私たち一行は下関港から関釜連絡船に乗船した。乗組員は敵潜水艦の攻撃を避けるため、厳重な見 張りに当たっていた。全員、救命胴衣を着用させられたが、何の不安もなく、無事、釜山港に入港した。

釜山から列車に乗り、哈爾浜(ハルビン)を経由して、目的地である五常(ゴジョウ)に向かうのだが、途中休憩のために恰爾演で下車した。

そのときロシア料理を御馳走になった。田舎育ちの私にとって初めての外国料理だった。

古里では、風邪を引いて寝込んでしまったときや、病気になったとき以外は、卵や牛乳、果物を食べたことがない。塩引きの魚は食べられても肉などはお目にかかったことがなかった。

見るからに美味しそうなロシア料理が目の前に出たときは、その豪華さに驚くとともに、どこからどのようにして食べたらいいものか、分からなかった。その時のひと口目の食感が外国を実感させ、その感激は生涯忘れることができない。

哈爾浜(ハルビン)の北にある五常(ゴジョウ)に到着後、市街地にある五常訓練所に入所した。クマノさんという人が塾を経営していたあとの建物だった。翌年には広大な畑の中に立派な訓練所が建設された。

起床後、駆け足で五常神社を参拝するのが訓練の始まりだった。訓練生とはいえ、農家出身者だけではないので軽作業だった。主に開拓に関する講義や、家事手伝いに関する学習で、難しく感じることはまったくなかった。

時々、開拓団員の女性たちが研修に来た。一年近くが経つと、訓練生が義勇隊の青年と見合いをするようになった。話がまとまった人たちは訓練所の会館で合同結婚式を挙げるまでになり、平和で楽しい生活が続いた。

私は一期一年の訓練が終わって、開拓保健婦養成所の試験に合格。昭和十九年三月、開拓保健団佳木斯市(ジャムス)保健婦養成所の第一期生として入所した。メンバーの大半は開拓団の団長や医師の娘さんたちだった。 

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ある日、思いがけず、父が五常訓練所に岩手県の第四期生を引率してきた。異国の地での再会です。涙、涙の対面を果たすことができた。

五常に来た父は私にこう言った。「関東軍の兵士になっている兄が奉天(審陽)の部隊にいるので、帰るときに面会に寄る。お前も一緒に行かないか」と。

私は「自分は保健婦になるために勉強中なので行くことができない」と断った。父は一瞬、 寂しそうな表情を見せたのですが、あとは何も言わずに別れた。

奉天で父と面会した兄は「この戦は勝つ見込みがない。自分は満洲の地で国のために果てる覚悟です。郷里にいる家族のことをよろしくお願いします。これが私の遺品です」と言って、時計や身の回り品を父に渡したそうだ。その時、兄は二十三歳だった。

自分の目標、進路が見えてきたある日、ソ連の囚人部隊が侵入したという情報が入ってきた。全員、車で三江省にある第一次開拓団養成所に緊急避難することになった。

養成所は一階が保健所、二階が養成所と産院、育児園があり、病院には民間人の妊婦が出産して入院していた。私たちはここで一泊し、翌日、新京 を目指して避難することになった。

妊婦の人は「死んでもいいから連れて行ってもらいたい」と懇願するのでしたが、周りの人たちは「ここに居た方が安全だから」と言い残して出発した。妊婦の人は「連れて行って」と泣き叫んでいた。

私たちはどこか分からない駅に着いた。行き先の分からない列車に乗ったのだった。無蓋なので雨が降ると大変だった。何時間か経ったとき、心配していた雨が降り出した。全身びしょ漏れだった。

徒歩で避難している人たちが悲痛な叫びを上げていた。「乗せて行ってくれ」。無情にも列車は走り続けた。私たちはこの列車の中で「日本の無条件降伏」を知った。

列車から降りた場所は飛行場のある基地だった。勿論、軍人の姿は見えない。私たちは「赤十字」の旗を立てて、兵舎に宿泊した。

一般の人たちは格納庫に避難したのですが、ソ連兵や満人が侵入してきて、婦女子に暴行を繰り返し、物品を略奪していった。どうすることもできない。顔に泥を塗っても、女性ということが分かるので手の施しようがない。

三週間ほど滞在したでしょうか。新京に向けて汽車で出発した。私たちの仲間が腕を引っ張られ、引きずり落とされそうになったのですが、みんなで助け、犠牲者を出さないで済んだ。

新京では学校の避難所で生活することになった。開拓保健所の医師グループの理事長さん がみんなにお金を配分してくれた。そのうち、養成所の舎監の方から「あなたは、これから保健団のヒラヤマ常務理事の家族と行動するように」との指示を受けた。

ヒラヤマさんは立派な方だった。過去に一緒に過ごした職員に渡すお金を天井裏に隠した。

それを知った開拓団の人々が度々、ヒラヤマさんを訪ねてくる。その度にお金を渡していたようだった。ある日、日本人数人がヒラヤマさんを連行していった。

ヒラヤマさんの奥さんは日赤従軍看護病院の女医さんでしたが、とても気丈な方だった。早速、ご主人の所在する場所を捜し始めた。日本人が収容されている避難所を回り、相手方の対応や口調から、ご主人の所在を確認することができた。

その後、ご主人が愛読していた本を持参して、「主人がこの本を読んでいたので渡して下さい」と 言って、探りを入れたのですが、初めは「そんな人はいない」と断られた。根気強く何度も通っているうちに、その情にほだされた相手が本を受け取ってくれた。

ヒラヤマさんを連行していった日本人はどんな立場の人か分かりませんが、ヒラヤマさんの持っていたお金の使途を問い質したそうだ。相手方はヒラヤマさんの人格を理解して解放してくれた。奥さんの勇気ある行動に感動した。

このころになると、ソ連軍も引き揚げ、治安も安定した。八路軍の兵士の姿も見られた。ヒラヤマご夫妻と一緒に、日本人が所有していた土地を借りて商いを始めた。よく売れた。残った食品は行商して完売だった。

間もなく、国府軍が侵攻してきた。正規軍の兵士が飛行機から落下傘でどんどん降下してきた。各所で戦闘が行われているようで、銃撃戦の音が聞こえてきた。

この戦闘で八路軍は撤退し、国府軍が新京を支配したようだ。ある日、ヒラヤマさんが懇意にしている満人が蒋介石総統の奥さんの従兄弟に当たる方を連れてこられた。その方は大変立派な軍人だった。

その後、時々遊びに来るようになり、泊まっていく日もあった。ある時、泊まって帰る朝、拳銃を忘れていった。ヒラヤマさんから預かった拳銃を手に、私は懸命に後を追いかけ、拳銃を渡したことがあった。それだけヒラヤマさんを信頼していた。

安定した日々が続くなか、帰国命令が出た。ヒラヤマさん一家と一緒、胡盧島(コロトウ)から引き揚げ船に乗り、博多に上陸した。無事、祖国に帰還したときの喜びは口では言い表せない歓喜と感動だった。上陸したその日は昭和二十一年九月、秋が深まり、木々が色づいていたころだった。ヒラヤマさん一家とともに、長野県諏訪市に疎開していたヒラヤマさんの弟さんの家を訪れた。ここで一泊し、古里・岩手県萩荘村の実家に生還した。

連絡もできないまま、突然の帰宅だった。家族の喜び、驚きようは想像もつかない大騒ぎとなった。(2009/6/30記)

(注、本文に登場するハルビン、五常、ジャムス、新京、胡盧島(コロトウ)の位置関係を下記に示す。)

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 序文「嗚呼満州!引き揚げまでの日々」より

昭和十九年八月、小学校六年生の後半、満洲林から古里の津谷(本吉町)に一時帰省した伯父に連れられて満洲に渡りました。

何不自由ない生活が人々に保障され、内地の生活からみれば天国のような満洲でした。 内地では、戦地に赴いている兵隊さんを優先した食糧増産が続けられていました。農家で生産された米も国に供出され、生産農家も食糧難の時代でした。

バレイショ、カボチャ、サツマイモなどが代用食となり、主食の米にもダイコン、バレイショ、海藻などを入れ、量を増やした「まぜご飯」 の日々でした。

 砂糖菓子類はいっさい手に入らなくなり、衣類、履物も新品を買えない状況でした。毎日の弁当のおかずは味噌漬け、ダイコン漬 け(タクワンヌ梅干し、生味噌などで、何の不平、不満もなく、不自由も感じませんでした。

「ぜいたくはl敵」「撃ちてし止まん」「欲しがりません勝つまでは」を合言葉に、軍事訓練、奉仕作業も日課になっていました。

満洲は生活すべてが満たされていました。空襲警報も灯火管制もありません。どこで戦争しているのか、まったく感じられないほどの桃源郷でした。

昭和二十年八月十五日、日本が連合国に敗れ、終戦後の満洲は在満日本人にとって天国から地獄に転落したような環境になってしまいました。

 居住していた場所や環境にもよりますが、言語に絶する悲惨な運命を迎えたことには変わりがありません。

本書では、その体験記の一端を紹介し、終戦後の満洲、北朝鮮在住の人々の苦難の実態、戦争によって肉親を失った家族の悲しみ、心情などを知っていただきたいと考えました。

そして、満洲、ソ連の各地で無念の死を遂げ、訪れる人もいない凍土の中で眠る多くの同胞の鎮魂と御冥福を祈念するとともに、日本、いや 世界の恒久平和を願って本書を発刊するに至ったしだいです。

千葉仁徳(チバヤスノリ)

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